東アジアの歴史教育国際交流―中日交流を中心に―
北京師範大学副教授 鄭林
私の報告テーマは、「東アジア諸国の歴史教育国際交流―中日交流を中心に―」である。
中国は改革開放以来、東アジア諸国との間に歴史教育国際交流を次第に多く行い、中でも、日本とは最も多くの交流を行った。ここでは、中日の歴史教育交流を中心に、東アジアの歴史教育国際交流の形式と内容に関する認識を話したい。
一、歴史教育国際交流の形式
歴史教育国際交流には様々な形式があるが、私はそれを以下の2種類にまとめる。
1.学術団体と研究機構の双方向交流
中国全国歴史教学研究会と日本歴史教育協議会との学術交流の事例を見よう。まず、1985年、中国全国歴史教学研究会は代表を派遣して、日本歴史教育協議会が東京で開催する国際会議に出席した。また1987年、日本側は代表団を派遣して、中国全国歴史教学研究会が安徽で開催の学術討論会に出席した。その後、双方とも経常的に代表を互いに派遣し、この種の会議に出席した。
また、1984年から、日本の「比較史、比較歴史教育研究会」は、「東アジア歴史教育討論会」を何回も主催し、中国、韓国、朝鮮、ベトナムなどの国が代表を派遣して参加した。中国全国歴史教学研究会の代表もこれに出席した。
それから、中国の人民教育出版社教材研究所と日本国際教育情報センターは、1988年から、互いに社会·歴史の教科書を交換し査読し、また、書面の形式と相互訪問や座談会などによって交流し、相手の教科書について総体的な印象と具体的意見を交換している。
#5#2.歴史教育研究者の単方向の交流
歴史の教育と研究に携わる人々は、外国を訪問し外国の文献を読むことによって、外国の歴史教育の情況を理解し、そして中国語の雑誌を通じて、彼らの知った状況を国内の歴史教育関係者に紹介している。
例えば、1981年、雑誌『歴史教学』第9号に「日本歴史教育の概況紹介」が発表された。1995年、雑誌『課程·教材·教育法』第2号に、「日本高校の新編歴史教材の基本特徴」に関する評論が発表された。1998年、雑誌『中学歴史教学参考』第8号に、「日本の社会科·歴史科の試験問題作成技術」についての紹介が発表された。これらの雑誌記事を通じて、中国の歴史教育関係者は日本の歴史教育について、包括的な理解を得ている。
二、歴史教育国際交流の内容
歴史教育国際交流の内容は、歴史課程の設置、歴史教学の計画、教学大綱、課程の基準、教学の内容、教学の方式などに関わっている。
1.一国の歴史教育の歴史と現状に関する概況的紹介
1984年、第1回の「東アジア歴史教育討論会」は東京で開催され、中国の研究者·包啓昌は、「十年来の中国歴史教育改革の回顧」というテーマで、中国歴史教育の状況を日本の歴史関係者に紹介した。1987年9月、中国教育学会歴史教学研究会の第2回2次年会が安徽涇県で開催された時、日本の研究者·佐藤伸雄先生、鬼頭明成先生、二谷貞夫先生は、それぞれ日本歴史教育の歴史、現状および歴史教育の成果を紹介した。また1994年、中国教育学会歴史教学研究会第3回3次年会は山東の臨沂市で開催された。日本上越大学の二谷貞夫先生は、「日本歴史教育の現状と課題」をテーマとして報告し、中国の研究者と交流した。
#5#2.歴史教育における共通関心の課題を特定テーマとして討論
1989年、第2回「東アジア歴史教育討論会」は東京で開催され、日本、中国、韓国、朝鮮の4カ国の研究者が参加した。各国の代表は、歴史教育における民族問題や、第二次世界大戦の戦争責任問題などについて討論を行った。1994年、第3回「東アジア歴史教育討論会」も東京で開催され、日本、ベトナム、韓国、中国大陸と台湾の研究者が参加した。そこで研究者たちは、「世界史における日清戦争」、「アメリカ合衆国の歴史をどのように理解するか」、などの問題を取り上げて討論した。また2000年11月、中国全国歴史教学研究会および歴史教学国際シンポジウムは上海で開催され、中国香港、台湾地区の歴史教育専門家や、韓国、日本、イギリスなどの国の研究者が参加した。諸国の研究者はともに、歴史教室の教学モデルの改革や、如何に歴史教学で学生の創造精神と実践能力を育てるかなどのことについて検討した。
3、外国歴史教育の具体的分野の情況に関する紹介
1980年代中期から、一部の歴史教育研究者は、日本や他の国の歴史教育における課程設置、教学大綱、課程の基準、教材、教学方法、教学評価などについて、次々と論文を発表した。たとえば、趙亜夫は「日本最新の歴史教育大綱」や、「日本の高校の新編歴史教材と教学目標およびその内容分析」などをテーマとして論文を書いた。
三、歴史教育国際交流の効果
30数年来、歴史教育の国際交流を通じて、私たちは次のような成果を得た。
1.歴史教育の発展を推進したこと
日本との歴史教科書交流において、日本人研究者からは、中国の歴史教科書での日本歴史解釈の観点が陳腐であると指摘し、日本学界での最新成果を採用するように希望した。そして、人民教育出版社は以後の教科書編集において、日本人研究者の合理的な意見を採用した。中国側も、日本の教科書における中国歴史解釈の不適切な観点や史実記載の間違いについて指摘した。日本側はこれについて研究を深め、教科書の叙述がより史実に合うように努力すると表明した。中国の人民教育出版社と日本の歴史教育関係者との交流は、双方の歴史教育の改革を促進するのに、とても良い役割を果たしている。
2.国際理解を促進したこと
国際交流を通じて、各国の研究者と教師は互いに相手の歴史教育の状況を知り、相互理解を強めた。たとえば、日本の教科書の地図は、中国の少数民族の自治区域を中国領域の外に描いているが、これは中国にとって受け入れがたいのである。日本の教科書がこのように地図を描いたのは主に、歴史上の民族問題に関する日本の認識が中国と違うからである。そして「東アジア歴史教育討論会」で、中国の代表は中国の民族政策、および歴史教科書における民族問題の記述を系統的に説明し、各国の研究者からの高い関心を呼んだ。これらの交流を通じて、各国の研究者は、認識上に差異がある問題について相互の理解を強めた。
四、歴史教育国際交流における不足の点
今までの交流は、ほとんど浅いレベルに止まっている。人民教育出版社のある専門家によると、日本の研究者と交流する時、日本から多くの資料を送られたが、日本語がわからないため、これらの資料は図書館に置いたまま、ほとんど読む人がいない。言語の面の困難などによって、より深い交流は未だできていない。また、研究者が自ら他国の歴史教育現場を見学する機会が得られず、相手国の歴史教育に関する実感的認識を得ていない。
五、三つの提案
1.各国の歴史研究会の役割を十分に生かし、各国の歴史研究会によって順番に歴史教学国際シンポジムを開催し、他国の歴史教育現場の見学を行うこと。
2.歴史教育者の外国語レベルを高め、歴史教育のより深いレベルの国際交流のために基礎を作ること。
3.系統的に外国の歴史教育の基礎的文献を翻訳し、本国の歴史教育者に豊かな参考資料を提供すること。
(區建英 訳)
冷戦後の中日経済交流
北京師範大学教授 李志英
日中国交正常化以来、日中間の貿易はずっと互惠的かつ協力的な態勢を見せた。しかし、冷戦後にはいくつかの変化が現われた。特に中国の輸出品目の内、工業製品が増え始めたことである。2003年には、中国の対日本輸出は主に食品、紡績品、鉱製品、木材およびその製品、アパレル、電機·音響設備およびその部品等であった。日本の対中国輸出は主に電機·音響設備およびその部品、一般金属およびその製品、自動車、航空器具·船舶および輸送設備、光学·医療機器、化学工業およびその関連製品、時計·楽器などであった。
日中間の貿易品目に工業製品があるならば、二国間の競争は生まれるのか。日中経済貿易の互惠·協力関係はこれによって変わるのか。
この問題は、日中貿易製品について具体的に分析する必要がある。2007年を例とすれば、この一年間中国の対日本輸出工業製品は主に電機製品、アパレル、靴類、家具、という四品目であった。その輸出高は合計714.7億米ドルであり、対日本輸出総額の七割を占めた。同年、日本から輸入された品目は主に電機·音響設備およびその部品、一般金属およびその製品、自動車、航空器具·船舶および輸送設備、光学·医療機器、化学工業およびその関連製品、時計、楽器などであった。中でも、電機製品は891.5億米ドルで、当年日本からの輸入総額の66.6%を占めた。
上述した貿易品目のうち、電機製品は重ねているかのように見えますが、中国が輸出した電機製品は低付加価値製品で値段のやすいものであり、日本から輸入したのはハイテック製品で、中国では生産できないものである。たとえば、中国の空前のインフラ建設ラッシュにおいて、建築機械の平均使用寿命は3,000時間に達するため、日本製の機会のみがこれほどの消耗に耐えられる。中国に必要とされる車部品製造の工作機会は、年平均の工作時間が3,500時間であるため、日本製の工作機会のみが5年連続してその性能が保てる。日本の経済評論家·長谷川慶太郎は「中国の未来は日本が決める」という論文で、「日本の工作機械がなければ、中国の自動車産業が動かない」と述べた。①このような発言が言いすぎかどうかは別として、その率直な表現は、日本の中国向けに輸出した電機製品が中国経済発展における重要性を物語っている。
このような分析を通じて、我々は以下のような結論が得られる。日中両国の企業は依然として異なる加工レベル、加工段階におかれている。両国の経済発展のレベルは異なる段階にあるので、両国間の経済には競争があるものの、互惠·協力の可能性がより大きい。
上述した日中間の貿易構造からも分かるように、かつて日本で流行っていたいわゆる「空洞化」の懸念は不要である。そればかりか、日本にとって不利な説とも言える。
21世紀に入ってから、一部の日本人が、対中国投資は日本の産業空洞化を引き起こすのではないかと懸念した。実際に、上述した分析によれば、中国の工業化水準がかなり向上したにもかかわらず、中国経済に差し迫って必要とする多くの製品はやはり日本から輸入されるのである。日本の産業は中国との関係を深めることによって、空洞化が生じたのではない。かえって、日本産業生産が繁栄しており、生産のものは皆ハイテク製品であり、技術のコア部分が皆日本の手にしっかり握られている。日本は製造部門を、中国を含む発展途上国へ移転させ、国内には技術のコア部分となる設計部門や、最小限の管理部門、および技術付加価値の最も高い製造·生産部門を残し、産業の高度緻密化を図り、経済発展の安全性を確保しようとしている。
市場から見れば、中国は疑いがなく今後数年間で世界最大の市場となる見込みである。日本が発展するためには、中国という市場を無視してはならない。1990年代初めに、少数の日本人が 「中国経済が崩壊する」とか、「国家が分裂する」と予言し、日本企業に「絶対に中国投資をするな」と警告した。その後、アジア金融危機が発生した。中国経済はその影響を受けて経済が减速し、様々な改革が難題に直面していたが、それにもかかわらず、中国経済は崩壊しなかった。21世紀の初めに、中国経済が高度成長の新しいラウンドに入り、経済の実力および世界経済における地位が空前に高まった。すると、日本にはまた「中国脅威論」と「空洞化懸念」が流行りだした。その背景において、日本の政府の関係部門も日本企業に対して「対中投資のリスク」に気を付けるよう再三注意をした。実際の情况からみると、一部の日本企業が確かにこのような宣伝を鵜呑みにして、中国へ投資しなかった。しかし、世界有名な多国籍企業ベスト500社がその間に中国へ投資し、先を争って中国市場を占領した。日本企業は中国市場へ進出する最も良い時期を失った。この点は、トヨタ、日産等の日本自動車メーカーが中国との関係発展過程を見れば、明らかである。