1868年、清の海関道である志剛は蒲安臣使節団について西洋各国を訪問した際に、西洋国家の外交と儀礼慣習に深く印象づけられ、特にアメリカ国務長官が行った外交例会を「人臣に外交なしの趣旨とは異なる」⑤と称賛した。
清朝は「人臣に外交なし」から「人臣が外交を行う」、さらには「親王外交」に至ったが、ここには中国半植民地外交の屈辱とやるせなさがあり、また中国と外国が相談して決めた方法、約束に従って行う国際的な外交の慣習もある。そして同時に中国近代外交が伝統的な閉鎖から近代的な開放へ進歩したのである。「人臣に外交なし」の思想体制は近代的な国家外交に移り変わった。東南アジアの伝統的な宗主国·属国の関係が近代国家の関係へ発展変化したのは一つの歴史的必然であった。
注:
①『礼記正義』巻25、[清]阮元校訂『十三経注疏』下冊(印影本)、中華書局、1980年、総頁数1447頁。
②[米国]馬士(Hosea Ballou Morse)、張彙文ほか訳『中華帝国対外関係史』第1巻、生活·読書·新知三聯書店、1957年、144頁。
③ 文慶ほか編『籌辦夷務始末 道光朝』第5冊、中華書局、1964年、2261頁。
④ 賈楨ほか編『籌辦夷務始末 咸豊朝』第7冊、中華書局、1979年、2334頁。
⑤ 志剛『初使泰西記』、鐘叔河主編『走向世界叢書』岳麓出版社、1985年、269頁。
(小林元裕 訳)
日本の植民地支配下における被害と連帯
新潟国際情報大学准教授 吉澤文寿
近代日本は日清戦争を皮切りに、1920年代初めまでに日清戦争からシベリア出兵まで五つの対外戦争を起こし、その結果として、台湾·関東州·南樺太·朝鮮·南洋群島を次々と植民地化した。植民地台湾の獲得の際、日本軍は台湾、そして朝鮮で大規模な征服戦争を展開し、それぞれ17,000人以上の台湾人、朝鮮人を虐殺した①。
日本の植民地支配は、強力な警察力·軍事力に支えられた暴力装置にその特徴を見ることができる。そして、その暴力装置は植民地化のみならず、植民地支配の過程でも引き続き機能する。1919年の三·一独立運動の場合、朝鮮総督府は憲兵警察、常駐2個師団、さらに日本本土からの援軍によって運動の鎮圧に努めた。このときの日本側の暴力的対応は1923年の関東大震災の際に、官憲及び自警団による朝鮮人及び中国人合わせて約6000人の虐殺につながった。三·一運動後の朝鮮では憲兵警察制度が廃止されたものの、警察人員を3倍にするなど、暴力装置の規模はむしろ拡大された。
そして、周知の通り、1931年の「満洲事変」を端緒として、日本は、日中戦争、アジア·太平洋戦争という15年戦争を推進した。これらの戦争を通じて、中国人1000万人以上、朝鮮人20万人以上、台湾人3万人以上が死亡した。また、この時期に日本人も310万人以上が死亡している②。
このような日本の植民地支配、侵略戦争に対して、抑圧、弾圧された人々による抵抗意識及び運動は各地で高揚した。それらは各地で独立的に展開したばかりでなく、「日帝打倒」を目指した地域横断的な連帯を模索した。例えば、先に見た三·一運動に対する各地の反応を見ると、中国では多くの朝鮮人運動家が活動していたことや、朝鮮に隣接していたこともあり、上海その他で中朝連帯行動が見られた。また、1920年代に入って、台湾の日本留学生たちの朝鮮留学生との交流が頻繁になった③。日本においても1927年5月から1935年3月まで活動した日本反帝同盟のように、反戦運動の中からアジアの人々との連帯を模索した日本人も現れた④。さらに、日本の労働運動、社会主義運動に多くの朝鮮人が参加していたことも明らかとなっている。
この時期の日本の行為によって死傷した被害者とその遺族たちがその被害を訴えることができるようになったのは冷戦終結後のことである。日本軍軍人·軍属、強制連行·強制労働、日本軍慰安婦、広島·長崎での被爆者など、その被害の類型は様々である。日本政府はこれらの被害者たちにほとんど補償措置をとっていない。
最近の事例を挙げると、戦時中に広島の水力発電所で強制労働された中国人労働者が1998年1月、雇用主の西松建設に損害賠償を請求したが、2007年4月、日本の最高裁判所はこれを認めなかった⑤。また、富山の工作機械メーカー不二越で勤労挺身隊として強制労働させられた朝鮮人女性とその遺族が、2003年4月に国と不二越に損害賠償などを要求したが、2007年9月、富山地裁で原告の請求が棄却された⑥。これらはいずれも日中共同声明や日韓請求権及び経済協力協定という二国間協定によって「解決済み」とされてしまった請求である。被害者は未だに救済されていないのである。
このように、近年の裁判は被害事実を認めつつ、二国間協定を理由に原告の請求を退けるものが相次いでいる。しかし、2008年4月、中国人被害者が三井鉱山、三菱マテリアルに損害賠償を請求している強制連行福岡訴訟第2陣の控訴審で、福岡高裁は「強制連行は国策。被害者の被った苦痛は大きい」との所見を示し、中国人被害者と国や企業に「和解」を勧告した⑦。このような「和解」勧告は事実上、日本の司法が被害者の救済を回避しつつ、当事者にその解決を促しているという点では、無条件に納得できるものではない。しかし、被害者救済の一環としてはこのような動きも一定の評価を受けるべきだろう。
また、日本政府は侵略政策に動員され、敗戦後に引揚げた者、シベリア抑留者、日本に「帰国」した中国残留孤児らに対する補償措置も怠っている。その一つの事例として、私が関わっている市民運動の活動の成果を紹介したい。2006年4月に「日韓会談文書·全面公開を求める会」という市民団体が日韓国交正常化交渉に関するあらゆる公文書の開示を外務省に請求した。その結果、外務省は2008年5月までに約6万ページの外交文書について開示決定を行った。私は開示請求した当初、日本政府は韓国人に支払うべき金額や、韓国政府に対日請求権を放棄させた論理などについてのみ不開示となるだろうと予想していた。しかし、実際に開示決定された文書を見ると、日本の在外資産額も不開示の対象になっていることが分かった。この事実は、日本政府はアジア·太平洋戦争敗戦後の、いわゆる引揚者たちの財産を十分に補償していないことを意味する。日本政府は現在進行中の日朝国交正常化交渉で不利益を被るおそれがあるという理由のほかに、在外財産の資産額が公表されたとき、日本国内から在外資産の返還を主張する人々や企業が現れることをおそれて不開示にしているものと思われる⑧。
このような事実を踏まえると、かつての侵略者としての「引揚者」と被侵略者としての朝鮮人、台湾人、中国人らとの「連帯」の可能性は全くないとは言えない。もちろん、支配者または侵略者としての日本人と、被支配者または被侵略者としての朝鮮人、台湾人、中国人とはその立場は大きく異なるため、その被害を同列に扱うことはできない。しかし、今日の状況において帝国主義または植民地主義を克服し、東アジアに平和秩序を打ち立てようとするのであれば、国家権力によって人権を蹂躙されたこれらの人々が「連帯」する可能性を追求する意味があるのではないだろうか。国家とは、人権とは、そして平和とは何かという問いに正面から取り組むためにも、日本の植民地主義を克服し、東アジアの人々が新たな社会を追求するためにも、彼ら「被害者」の視点からの、東アジア人民の連帯が模索される時期に来ているのではないだろうか。
注:
① 荒川章二「日本近代史における戦争と植民地」(『岩波講座:アジア·太平洋戦争1 なぜ、いまアジア·太平洋戦争か』岩波書店、2005年)。
② 「白書 日本の戦争責任」(『世界』1994年2月号)144-145頁。
③ 朴慶植『朝鮮三·一独立運動』(平凡社、1976年)253-284頁。
④ 井上學『日本反帝同盟史研究』(不二出版、2008年)。
⑤ 「中国人の請求権認めず 「日中声明で放棄」最高裁初判断」『朝日新聞』2007年4月27日付(夕刊)。
⑥ 「不二越2次訴訟 元挺身隊員の請求棄却」『北陸中日新聞』2007年9月20日付。
⑦ 「強制連行で「和解」勧告 福岡高裁 最高裁判決後で初」『新潟日報』2008年4月22日付。
⑧ 「日韓会談文書·全面公開を求める会」の請求にもとづいて開示決定された外交文書については同会ホームページ http://www7b.biglobe.ne.jp/~nikkan/index.html で閲覧することができる。
東学と清末における中日文化交流の変化
北京師範大学教授 史革新
中日両国はともに長い文明的な歴史を持ち、両国人民はお互いに学び、相促し、共同して光り輝く東アジア文明を創り上げた。文化交流の角度から見たとき、古代における中日両国の文化交流は、中国の文化輸出が総じて日本より多く、日本は主に中国の儒家文化を学び、吸収することを通じて自己の民族文化を形成していった。そして近代に至って中日両国はともに西洋列強の侵略に直面するものの、日本は「開化」が少し早く、成功裏に明治維新を進め、資本主義を単独で発展させる道を歩んだ。一方、中国は半植民地半封建社会になり下がり、日本に学ばざるを得なくなった。昔に文化を受け入れたものが、後に文化を輸出する側に回り、中日文化交流の流れは劇的に逆転したのである。
1840~50年代に至って、西洋国家は前後して侵略の触手を鎖国状態にあった中国と日本にそれぞれ伸ばし、両国における朝野の人々に対応策を考えさせた。1860年代、中日両国は西洋の「長技」(得意とする技能)を学ぶことを目的とした改革運動をほぼ同時に開始し、中国は「洋務運動」と称され、日本では「明治維新」と呼んだ。中国の洋務運動は「中学(中国の伝統的な学問)を体となし、西学(西洋の学問)を用となす」ことを主な目的として実行し、行ったのは一面的な近代化の改革であった。したがって期待した効果が得られず、清政府が企図した、このような改革から「富国強兵」を実現するという望みは当てが外れてしまった。一方、日本の明治維新は「富国強兵」、「殖産興業」、「文明開化」をスローガンに西洋の近代化改革をかなり真剣に学んでいった。数十年の「維新」改革を経て、日本はかなり順調に半植民地の危機を抜け出し、封建社会から資本主義社会へ切り替わり、アジアで唯一の独立自主的な近代国家となった。日本の維新派は「日本国を兵力の強い商売の繁盛する大国にしてみたい」①という夢を実現することができた。日本に発生した劇的な変化に直面しても、多くの中国人は日清戦争までには無感覚の状態であった。
1894年に勃発した日清戦争は、帝国主義列強による中国侵略が一つの新しい段階に至ったことを示し、また中国の近代史発展における一つの重要な転換点となった。康有為、梁啓超らを代表とする維新派とその他正義の志士は教訓をくみ取り、中国が戦いに敗れた原因、国家が今後生きていく道に対して深く自己批判し、新たな観点で中国と日本に発生した変化を見始めた。その結果、日本が日清戦争において中国を打ち負かしたその鍵は日本が西洋の社会改革をかなり真剣に学んだことにあり、明治維新は真の富国強兵の道を歩み、中国が参考にする価値があるとの認識に彼らは達した。康有為は変法運動のなかで自ら執筆した『日本変政考』を光緒帝に進呈し、統治者は日本の明治維新を手本として本物の変法改革を実行することを期待した。康有為の影響のもと、維新派は外国を学ぶ視野が新たに開かれ、欧米に学ぶだけでなく、日本をも手本としようとして、日本に学び研究するブームが中国の知識階級の間に湧き起こった。
このとき中国が日本に学ぶ道は主に次の三つがあった。一つめは日本人顧問を招聘すること、二つめは留学生を日本に派遣すること、三つめは日本の書籍を翻訳することである。