寧波の歴史は7000年前に遡ることができる。河姆渡遺跡が発掘されたことにより、寧波は世界で一番早く稻を栽培した場所の一つであると証明された。ここに、伝説の秦代の徐福が日本に渡るときの出発点の達蓬山もあれば、唐代、宋代以来、海上シルクロードと磁器輸出の出港地もある。
寧波には、多くの知識人が集まり、経済活動が盛んに行われている。王守仁によって創立された「陽明学派」は世間に名を馳せ、黄宗羲の「浙東史学」は影響が深く、民族英雄—張蒼水の正義が永遠に存し、京劇麒派の祖師—周信芳、著名な作家~殷夫、柔石、書道の泰斗~沙孟海、中国画の大師~潘天寿など、全国では、有名となり、商業界で巨頭と称される包玉剛、邵逸夫、王寛誠、応昌期などの人物は「寧波邦」として海外によく知られている。我が国の科学アカデミーと工程アカデミーの「両院」には寧波籍の人が80人あまりいる。また、宇宙の中でも寧波人の氏名で命名された小惑星も五つ運行している。
河姆渡人
町から西へ行く約20キロ離れるところに余姚河姆渡村がある。この村は姚江の浜に位置し、すぐ後ろに四明山が聳え立ち、寧波~紹興平原に面し、景色がいい。1973 年夏、当時余姚県羅江公社渡頭村の農民たちは水利建設を作業し、大型ポンプを設置するため、土を掘ったら、大量な古代の陶磁器の破片と動物の遺骨が発掘された。したがって、千年以上封じられた村落が再び人々の前に現れた。
科学的探測によると、この遺跡は総面積が4万平方メートルで、畳んで覆われた四つの文化層の中、最下層を炭14で探測することによると、今まで約7000年の歴史を有するという。1973年と1977年の二度の科学発掘で、骨器、陶器、石器、木器、玉器などの各材料で作られた生産道具、生活用品が出土された。装飾工芸品及び人工栽培した稲の遺物、高床式建築、動?植物の遺骸などの文物は7000点あまり、わが国の原始社会における母系氏族繁栄時期の生活様式を改めて表した。これは農業、建築、紡織、芸術及び東方文明を研究するには貴重な実物資料を提供した。学術界で「河姆渡文化」と言われている。大量の文物から見て、寧波は世界で最初の水稲栽培の発祥地の一つで、長江流域、黄河流域とともに、中華民族の揺籃であるということが分かった。
河姆渡遺跡から人工栽培した大量のジャポニカ?インディカ稻及び木耜、骨耜、骨スコップなどの農具が発見されたことによって、7000 年前、わが国はすでに「耜耕」という農業階段に入ったことが明らかになった。その研究を通じ、国内の新石器時代の考古史上に「粳(うるち米、ジャポニカ)あり籼(インディカ)なし」という時代の終わりを告げ、そして中国は世界において人工栽培の稲の発祥地ということを宣告した。遺跡の下層で発掘された千点を超えた石器や動物の骨という道具で建てられた高床式の建築、特にほぞとほぞ穴構造、さねはぎ板などの工芸部材の採用はわが国の古代建築史上において一つの奇観であると言えよう。50 種類あまりの動物の遺骨の中に、数多いのは人間が飼っていた豚や牛や犬などの骨で、特に豚模様の陶器と鉢の出土は、河姆渡がわが国で最も早く豚のような原始動物を飼った地域の一つであることを証明した。遺跡の中に出土された六本の木製の櫂、一つの陶製の舟の模型は、当時河姆渡の先住民が既に航行の意識を有し、また採集、漁業、狩猟を通して生存する能力を持っていたことを語っている。各種類の陶器紡織製品の広い範囲での使用は、原始人の生活状況を大きく改善し、定住生活の発展に役立った。河姆渡の先住民は物質文明の方面に巨大な貢献をしただけではなく、原始芸術の方面にも卓越な成果を挙げた。各種の美しい彫刻の原始芸術品、特に生き生きとした豚模様の陶器、巧みな「雙鳥朝陽象牙蝶形器」、「手彫鳥紋骨匕(あいくち)」などの珍品は寧波の先住民が7000年前既に強い原始審美意識と工芸の形式で心を豊かにする技を持っていたことを表している。漆の碗と木構造の井戸の発見は、寧波がわが国において一番早く装飾用の漆と井戸を発明した地域を証明した。
河姆渡遺跡での出土品は内包が豊かで、鮮烈な地域特徴を持っているので、河姆渡特有の文化が生み出された。それはわが国の農業、牧畜業、古建築、紡織、陶器、芸術の源を探索するには、また古地理、古気象、古生物、民俗、宗教など諸学科の総合性、学際的な研究をするにも実物資料を提供した。しかも、河姆渡遺跡はもう国内外の学術界で注目を集めている。河姆渡で出土した珍品は何度も国内外の展覧会に出品され、「中国文物精華」という国家レベルの出版物に収納されたこともある。1979 年、日本の学術界はこれを「世界考古学事典」に載せた。1980年、イギリスの出版物「ケンブリッジ考古学百科全書」にはカラーピクチャーを添えて、河姆渡遺跡を詳しく紹介した。ユネスコは河姆渡遺跡を世界著名文化名所の地図に入れた。
出土品についての研究を通じ、歴史の面影が徐々に浮かび上がっていた。当時の人々の生産、生活、宗教及び芸術などの活動を探索したら、河姆渡文化が同時期の中原文化と明らかに違い、濃厚な江南水郷の特色を表しているという。河姆渡文化に展示したさまざまな文化現象は後世の江南文化、特に百越民族文化との類似点が意外に多い。中華民族文化の形成に重要な貢献をしたのも表されている。
当時の社会文化の特徴
一、主食は米で、汁は魚という農業経済生活。河姆渡遺跡にあるすべての出土品の中で、一番影響をもたらしたのは今まで比較的に一番早く、一番数が多く、一番良く保存された人工栽培稲の発見である。第四文化層の上の400平方メートルの広い範囲で、広く分布した稲、籾殻、稲の茎、稲の葉っぱ及び木の屑が混在し形成した稲の堆積層は堆積の厚さが平均50センチ、最も厚い所は80 センチある。特に驚いたことには、出土したばかりの稲は外形が完璧、色合いが金黄色を示している。ある籾殻の上に脈、毛及び芒まではっきり見える。こういう発見は学術界を驚かせて、アジアの栽培稲の源を研究するブームを起こした。それに、中国の長江流域も世界で最初に水稲を栽培し始め、お米を主食とする一つの地域ということは大量に保存された出土品によって証明された。
二、木構造高床式の住宅。二回発掘した河姆渡遺跡で、所々木構造建築の遺跡が見え、特に、第四文化層の発掘区域に隙間なく大小の木柱と縦横に交錯する建築が存在し、7000 年前の江南地域の建築風格を掲示した。河姆渡の人は家を建てる時、まず土にいろいろな杭を打ち、杭に竜骨(キール)を架し、その上に木板を敷く。そして、柱を立て、梁を架し、屋根を被せる。そうして、床が地面より高い住宅ができた。このような、湿気を防ぐだけでなく、蛇や虫や猛獣の攻撃も防げる高床式建築は河姆渡の先住民が湿気の高い気候に適応するための優れた創造である。わが国の南方の伝統的な木構造建築の源でもある。出土した木建築の中に加工されたほぞとほぞ穴の接触点もある。こういう構造が科学的で、力学原理に適するほぞとほぞ穴の部材は河姆渡先住民のずば抜けた木製作の技術を充分に反映した。燕尾のほぞ、さねはぎ板、梢釘の出土は河姆渡時期の建築工芸を復原するのに更に重要な実物根拠を与えた。科学的に復原された高床式建築は南東~北西のほうへ呈示して、東南側にある戸が南東へ7度~10度傾いている。こういう方角の選択は人類の冬暖夏涼の住宅要求に一致し、河姆渡先住民が長期的自然を観察し、把握した結晶である。
三、櫂を漕ぎ、舟で行くこと。今まで世界で一番古い人工水上交通道具~櫂が河姆渡遺跡で八本出土した。櫂の柄、櫂葉は全部木で作られた。櫂葉は柳の葉の形をして、巧みに作られた。ある櫂の柄には花の紋が刻まれ、摩擦力を増やし、漕いでいるうちに櫂が手から落ちるのを防いである上に、装飾の役割もある。常識から見れば、櫂があれば必ず船がある。その点から見て、河姆渡の人は既に櫂を持って、自分の活動範囲を領域以外の水地域に広げた。そして、食物を増やし、近くの村との交流を拡大した。遺跡に出土した動植物の遺物は長期的な生産活動の中で河姆渡の人が水と深く関係があるのを証明した。太平洋地域環状の諸島に発見された河姆渡文化特徴を有する有段石鉢を通して、河姆渡人は六、七千年以前から、もう広く果てしない太平洋へ出発し始めたということがさらに明らかになった。また、彼らは最も開拓、冒険の精神を持っている海洋民族の一員であることは言うまでもない。
四、玉の装飾品好き。河姆渡に出土した多くの骨、角、獣の歯と石材で作られた各種の携帯装飾品の中で、脚光を浴びているのは玉璜と玉玦である。周知のように、玉文化は中華民族文化の特徴の一つである。昔から、玉にはずっと高尚、完璧な品格を与えられた。河姆渡の先住民は一番早く中華民族の玉装飾品を始めたのではなかろうか。
五、鳳凰を尊び、信仰すること。河姆渡遺跡に出土された多くの精巧な原始芸術品の中には鳥と太陽の組み合わせのデザインが数少なくない。直接に鳥の形にする彫刻品もある。その中、「雙鳥朝陽」紋象牙蝶形器は国宝とも言える。その正面に刻まれた五つの同心円は太陽を表し、外の円形に強い炎があり、太陽の光を表し、両側には鳳凰が一羽ずつ付き、首を擡げて互いに望み合い、太陽を載せている。この図は形象的に河姆渡文化時期に農業が発達してから先住民たちが万物を照らす太陽と時間を知る鳥への崇敬を表している。これも三国、両晋の時期、越の地域にある独特の埴輪~魂瓶の上に鳥の形がいっぱい描かれた原因の一つである。
河姆渡遺跡の出土品は内包が豊かで、しかもよく保存されている。また、大量の出土品によると、六、七千年前に河姆渡先住民はもう布を織り始め、井戸を掘り、漆の器を発明したという。以上のすべては専門家たちの視野を広げて、長江下流の有史以前の考古を新たなステージに登らせた。それにこの事実を持って、江南地域において有史以前の文化の発展が比較的に遅いと言う観点を正し、中華民族文化の起源が単一ではなく多元で、河姆渡も中華民族の古文化の揺籃であることが有力に証明された。
河姆渡を発掘して以後、毎年数多くの観光客と国内外の専門家、学者が観光、考察に訪れた。優秀な民族文化を発揚するため、政府は資金を集め、遺跡の上にある村と工場を移設させ、「河姆渡遺跡総体企画」を出し、河姆渡遺跡博物館を建設した。博物館は文物陳列館と遺跡現場展示の二つの部分からなっている。
1993年、落成、オープンした河姆渡遺跡博物館は39000平方メートルの総面積、32000 平方メートルの建築面積を有する。「高床式」の建築構造で、河姆渡遺跡原始時期の建築特徴を表した。屋根の縦横に交錯する構造は7000年前の先進的なほぞとほぞ穴技術を代表した。エントランスは翼を広げて飛んでいる巨大な鳥の形をして、河姆渡の先住民が鳥を愛し、信仰する文化を表現した。河姆渡遺跡博物館は落成、オープンしてからの10年間、84ヵ国と地域に及ぶ合わせて70万人あまりの観光客が訪れた。博物館の落成開放は悠久の歴史文化を発揚し、対外開放を拡大し、愛国統一戦線を促すのに積極的な役割を果たした。香港、台湾からの多くの観光客は観光した後、感慨万千、祖国にこんな素晴らしい古代文化を持っていることに対して驚嘆した。自分が中華民族の一員として誇りに思っている。この古老の文化は我々台湾海峡両岸人民の感情を繋ぐ絆である。台北寧波同郷会はほぼ毎年団体で河姆渡に来る。彼らはわざわざ河姆渡のために作った旗を持ってきた。旗には「震撼全球」(世界を轟かせた)が書いてある。この四文字は無数の中国人の共同の心を反映している。
1999年、遺跡現場展示区が観光客に開放された。展示区は23000平方メートルの面積を有する。二回の考古発掘現場を再現する外、科学的に復原された河姆渡時期の高床式建築は大量の人物彫刻とともに、河姆渡先住民の生産、生活の情景をありのままに展示し、古代中華の歴史起源と文化啓蒙を再現しているようである。
2002年、河姆渡遺跡地形の高低を利用して、「河姆渡原始生態区」を建設した。生態区は約700畝の面積を有し、林を通った一本の婉曲な小川と小さな湖を骨組みとして建設され、素朴で幽寂な原始生態区が形成された。
現在、河姆渡文化の素朴、趣を表す「河姆渡生態区」と河姆渡リゾートを一歩進んで建設している。近い将来、河姆渡は研究、南方遠古文化の展示場とともに、現代人が身をもって、史前文化の雰囲気を味わい、歴史の境地を遡るリゾートになることを信じている。